さとりなあ

カメレオンみたいだなって、よく思う。

あの夏の日々

その人に惚れたのは、確率の問題だった。しかも何億とか何兆って確率。まさか、何分の1の確率だなんて計算するわけないけど。
たまたま同じ学校で。たまたま同じ電車で。
たまたまスマホじゃなくて本読んでて。
ほんとにたまたま…その本が私の好きな本で。
そこからはもう、一気に落ちてった。出会った確率と同じく、恋が叶う確率もとても低いことを知っていながらも、私があの人に恋い焦がれたのは…叶う確率の方が、少しだけ高いことを望んでいただけかもしれない。



それまでは意識したこともなかったあの人が、私の中に存在感を残していったのは、なんの変哲もない日の放課後のこと。人気の薄れた校舎を足早に進む。目指すは音楽室。最終下校時刻までのタイムリミットはあと10分。遅れた提出物の紙切れ一枚を出すのには、十分すぎる時間だ。音楽室の扉を前にして、開けようと引き戸に手を伸ばしたまま固まる。
(…なんかめっちゃキレイな歌声聞こえるんだけど)
高いけど、キンキンしてるわけでもなく、とにかくキレイな歌声。扉を細く開け、中を窺う。そこにいたのが、あの人だった。彼の名は海野。私の通う女子校唯一の、若い男だ。



「ねぇ○○ってさ、海野のライブ行きたがってたよね?」
猫なで声が背後から聞こえ、悲鳴を上げかけるが、どうにかこらえて振り向く。クラスメイトの内の数少ない友達の一人、ミヤコ。猫みたいにしなやかなので、私は彼女をねこちゃんと呼んでいる。ちなみに、私が海野に恋していることを唯一知っている人間でもある。
「なんだ、ねこちゃんか。うん、めっちゃ行きたい。…でもなんで?」
「もしさ、チケット手に入ったら、行く? 私のお兄ちゃん、海野のバンドのキーボードの人と知り合いらしくて。○○のこと話したら、チケット貰ってこようか?って」
「マジか、行く行く、絶対行く」
 海野は学生時代の友人とバンドを組んでいて、ギター兼ボーカルを務めているらしい。わあ、意外。そんなギャップも萌えポイントだったりする。あまりバンドに興味ない私が、最近ちょっとガチャガチャした音楽を聴き始めたのに、海野が一切関係ないとは言い難い。

 とはいえ人見知りな私。周りは知らない人ばっかりで、少々緊張ぎみ。てっきりねこちゃんが一緒に来てくれるものだと思っていたのに、彼女は好きな男性アイドルのグッズ販売があるとかないとかで来なかったのだ。
突如、ベースを片手に高身長・イケメンな男の人が現れた。随分と大きな黄色い悲鳴が上がる。どうも、今日集まった人の中には、彼のファンが多数いるらしい。わらわらとステージに出てきた人たちのしんがりに、見慣れた姿があった。赤いギターを両手でしっかり握っている海野。少し大きめのパーカーが萌え袖のように手を包んでいる。寒そうに首をすくめる。いつ見ても可愛いな、こんちくしょう。
曲のイントロが流れ出す。聞いたことはないけれど、なんだか懐かしいような曲で、思わず頬が緩む。ギターを弾くあの人も素敵で、そんなキャラではないはずの私も、周りに合わせて手を叩く。―――海野の綺麗な歌声が、もうすぐ聞ける。
前奏が終わる瞬間を逃さないよう、しっかりと耳を澄ませる。海野が口をゆっくり開いた。息を吸う音が、マイクを通して聞こえた気がした。



「あ、ライブ、どうだった?」
ねこちゃんがラーメンを冷ましながら訊ねる。
「もうね、マジか!って感じ」
そう、あの日、あの人の声は、小さすぎて楽器の音に掻き消されたのだった。マイク調節どうにかしろよ。…それでも少し顔を赤らめて必死に歌う海野は、ギャップもありやっぱり格好良かった。うん、ギャップって大切。
「あっは、そんなことあるんだー」
「ねこちゃん、麺が汁吸ってますけど」
ねこちゃんは私の忠告を完全無視して麺をふーふー冷ます。チケットのお礼に、食堂で奢ってやってるのは誰だ。キングー!
 既に食べ終わったラーメンの器に浮かぶ油を、レンゲでつつく。暇だ。暇すぎる。こんな時は人見知りで会話が苦手な私なりに、海野の授業を聞くふりをしながら、海野を眺めてたい。いやん、変態。


史上最高の可愛さ(寝癖)をぴょこぴょこさせながら入ってくる海野。最近は随分と日差しが強くて、運動部の子たちの制汗剤の匂いが教室に充満する。香水みたいに甘くなくて、ちょっとツンとする爽やかな香り、主に柑橘系。普段は女子力の欠片もない女子校の奴らも、さすがに汗臭い女でいるのは嫌らしい。チョークとお弁当と汗と、グレープフルーツの科学的な匂いが混じった教室の空気を吸って、海野が目を丸くする。
「すごい匂いだね。別にこんなの使わなくていいのに」
「ばーか、汗臭いとかムリに決まってんじゃん」
クラスの仕切り屋、マドカちゃんが返す。海野はカラカラ笑う。
「でもボクの彼女、こういうの付けない…し…」
言ってから、しまった!と目を見開く海野。
「え、ナニ、マジ? 海野カノジョいんの? ウケる~!」
マドカちゃんの声が、キンキン響いた。私はうつむく。目頭がじわっと熱くなる。言っちゃ悪いけど、海野ってそんなに格好いいわけじゃない。だから、彼女がいると思ったことすら無かった。それって、私の自己保身の為の考えなだけだ。

海野の柔らかそうなサラサラの黒髪が風にゆれる。海野は茶髪も金髪も似合うと思うけど、やっぱり黒髪がいい。ジリジリと肌を刺す熱は、黒板に綴られていく海野の端整な字をただ眺めながら座っているだけの私を、窓を通してながら汗ばませる。海野の頬に一粒の汗の珠が光る。クーラーのないこの教室は、バカみたいに暑い。
そう、まるで禁断の恋に燃えていた、さっきまでの私みたいに。



「でも結局さー、忘れらんないワケよ。ちょっと聞いてんの、ねこちゃん」
「聞いてるよー、もう、○○ちゃん酔ってるでしょ?」
ねこちゃんが可愛く顔をしかめる。しっかし美人になったもんだ。人って10年弱でこんなに変わるんだー、へー。
「あーあ、私もねこちゃんみたに美人だったらなーっ」
「いきなり何よ、酔っ払い」
「あーっ、言ったな!」
「告白とかしなかったの?」
 カラン、と氷の小気味いい音が響いた。ちょっと強めのウィスキーの私と、お洒落なサワーのねこちゃん。なんだかんだで、月に一回くらいの頻度で会う私たちは気が合うらしい。
「告白…ねぇ」
 正直、告白しようと思ったことは何度もあった。でも私は、海野との関係性を壊したくなかったのだ。第一に、好きだったから彼を困らせたくなかった。そして、第二に…
「やっぱり、ああいう人だったから、好きだったんだろうな。今の私たちくらいだよね、あの時の海野。学生時代の年上って、1歳2歳でも、すごく大人に見えたじゃん。大人の恋に憧れてただけなのかも」
 それでも、またどこかで会えるんじゃないかとか、恋に発展しないかとか、考えちゃったりしてるんですよ。私のこと、覚えてますか? …海野先生。