さとりなあ

カメレオンみたいだなって、よく思う。

人形劇団ぴよ『糸操り女と棒使い男』

劇場の電気はすっと落とされた。劇場といっても、すし詰めにして百人入るか入らないかの小さな規模だ。それでもこの劇団にとって、この小さな劇場の小さな舞台はぴったりの大きさだった。空いていた席にコートを脱いで腰掛けると、切ってもらったばかりのチケットをポケットにねじ込み、幸せのため息を吐いた。するとあっという間に闇の世界に一人ぼっちにされた気分になった。本当に真っ暗すぎて、おもちゃの詰まったびっくり箱に閉じ込められているような気がした。暗闇に目が慣れる前に、チョンチョンと拍子木の音が流れる。小さな舞台に小さなぼんぼりの灯がぽっと灯った。


「……あら、またいらしたの」
女は振り向くことなくそう呟いた。その声はどこか淋しげて、少年のようなあどけなさの残る青年は、障子をからりと引いて閉じると、女に駆け寄った。
「あなたにずっと会いたかった。覚えていてくれたのですね。早く、早く会おうと思ってはいたのですが……」
青年は袂を口元に当てて口篭る。女はまだ振り向かず、なにも喋らない。遠くで響くぽろんとした三味線の音とは違って、この二人きりの小さな部屋は沈黙で包まれていた。

 


「……あの、怒っていますか?」
遂に沈黙に耐えきれなくなって、青年が問うた。女の肩がぴくりと動いた。
「怒っている?」
 女の長くて黒い髪が、肩からはらりと零れた。青年は前のめりになって答える。
「ええ。僕が早く会いに来なかったから。約束をしたでしょう、すぐにまた会いに来ますと」
「そんなことおっしゃったかしら」
 女は純粋に理解できていないような口調で呟いた。
「あなたがいらっしゃらなくても、私に不都合なことはございませんわ。お金を落としてくださる殿方は、絶えずここへ訪れますもの。…ただ、怒るという感情が私には分からない」
 切なげに訴える声は、女が孤独であることを暗に伝えているような気がした。この世の何もかもを知っていそうな知性溢れる声色なのに、何も知らない純粋無垢な少女っぽさも見え隠れするアンバランスさ。そして女はゆっくりと振り向いた。床まで広がった髪は滑らかに揺れ、光沢を帯びて光った。
赤く色づいた唇は、ふっくらとして艶っぽい。首元から髪越しに透ける白い肌は、思わず跡を付けたくなるほどのきめ細かさ。ただ一つ不思議なのは、決して厭らしくは無いこと。むしろどこか高貴な雰囲気を漂わせているような顔立ちだった。しかし女の顔からは表情が読み取れず、それが逆に異常なくらいに美しかった。
「怒るという感情が分からないとは…またどうして」
 青年がおずおずと尋ねた。女は扇で目元までを覆うと、小さな声で囁く。
「怒るだけじゃありません。ただ一つ、私が知っている感情は、哀しさだけ」
伏し目がちな長い睫が、女の顔に影を作る。透けるような肌は、女の纏った真っ黒な地に金の刺繍の施された着物で、より一層白さが際立っていた。先ほどから廊下をぱたぱたと通りかかる、他の若い盛りの女達は、色とりどりの派手な着物を着ていたので、女の黒い着物は異質に見えた。

 

  青年はめげないらしかった。それは若さゆえの気遣いの無さなのか、それとも女に魅了されて、全てを愛している気になっていたのか。
「あなたのことをもっと知りたい。僕はお金を沢山持っているわけでもないし、他と比べて美男子なわけでもない……。だけどあなたの気持ちは分かる気がするんです。どうか胸の内に抱えるものを、少しでも分けてみては?」
「大した話ではございませんわ。それよりもっと、他の殿方がなさるような、ご自分のお話をお聞かせくださいまし」
「僕はあなたのことを知りたいのです。分かり合いたいのです。心の支えになりたい」
 青年は手をついて、女に躰を寄せた。女は青年から顔をそらし、しばし考え込む。
「……分かりました。私のことをお話ししましょう」

 


「家族は皆死にました」
 女は自嘲的に赤い唇を歪ませて嗤った。いや、実際はそう見えただけだ。女の表情は変化することが出来ないのだから。それでも女は、まるで表情を知っているかのように、そっと嗤ったのだった。無機質な、白くつるりとした、美しい顔で。
「よくあることですが、母は病弱で、私の妹を産んですぐに息を引き取りました。父は名も無い地方の役人で、ある時謀反の罪に問われて殺されました。兄二人と妹、そして私は逃げましたが、途中で下の兄が病気になり死にました」
 女は表情がないばかりか、紡ぎだす言葉にも何の感情も籠っておらず、空虚だった。淡々と語られる女の過去は悲惨なのに、彼女はそれをまるで見聞きしたことのように語るのだ。青年は女の言葉を一心に受けようと頷きを繰り返していたが、なんだかその様は滑稽に見えた。
「上の兄は、新しく見つけた住居の裏にある崖から落ちて、命を落としました。私は妹と生きるためにここで働き始めましたが、妹は私が外に出ている間に、家に入った泥棒に殺されました」


 青年が袂で目じりを押さえた。女は小首を傾げて青年を見つめていた。何故彼が泣いているのかが、本当に分からないらしかった。
「……これからは、僕があなたを支えます。決して手放したり、苦しませたり、悲しませたりしません。だから、…」
 お時間です、と愛想のよい声が障子越しに聞こえて、青年は口をつぐんだ。
「また……お待ちしております」
 女は切なげに顔を伏せた。青年は強く頷くと、女の扇を奪い取ると、自分のを握らせた。
「絶対に、また来ますから。僕の愛は分かって頂けていると思ってはいますが、会えない間、僕のこの扇を形見に淋しさを紛らわせてください。それと…あなたはこの間、お名前を教えてくださりませんでしたね。あなたの名前を呼んで、そしてあなたに触れたい」
「私の名前」
 女は拍子抜けしたように呟いた。
「そうですね。私の周りの人が順番に亡くなるものですから、人は皆、私のことをこう呼びますわ」
 女は青年の耳元へ、形のよい唇を寄せて囁いた。
「死神、と」
 青年はごくりと息を飲んだ。そして黙って障子を引き、廊下に消えていった。
「お帰りになる時、お気をつけて。死神に魅入られないように」
 女の呟きはきっと彼には聞こえていないだろう。気付くともう日も暮れて、外は鈴虫の音で溢れかえっているようだった。
 ぼんぼりの灯が、魂が消えてしまうかのように、すうっと闇に溶けた。


 いつもの子供向けのもいいけれど、たまにはこんな大人向けのも面白いな、と思った。青年の人形は棒で動かしているのに対し、女は糸で操っているタイプの人形だったのも新鮮だった。登場する人形がその二人だけなのにも関わらず、わざわざ形を変えた理由は定かではないが。その違いも二人の立場の違いを表しているようで、好印象だった。
「人形劇団ぴよの大人向け公演『糸操り女と棒使い男』は、これにて終了でーす。本日はありがとうございました。お気をつけてお帰りください」
 このまま死神に魅入られてこの世を去れたら……いやだめだ、明日もやらなければならない仕事が山積みだ。入ったばかりの新人が使えるようになるまでは死ねない、とため息を吐いて、まだ長く続きそうな冬の街に、コートを引っ掛けながら繰り出した。