さとりなあ

カメレオンみたいだなって、よく思う。

ライオンとピエロ

 サーカスのテントの中は、人でいっぱいで、冬なのにじっとりと汗をかくほどに温まっていた。
「さーあ、続いては皆さんお待ちかねのライオンショーでございます!」
 司会者の盛り上げに、会場は更に沸いた。
「まずはライオンの玉乗り。この大きな玉に乗ってもらいましょう!」
 それを楽屋の小さなテレビで見ていたピエロは、大きくため息を吐いた。サーカス当日は、楽屋が賑やかになる。ライオン使いとライオンは、揃って同じ部屋に押し込められるからだ。
「みんな、賢そうなライオンだね」
 何言ってる。メスライオンに鬣を付けたみたいな奴らばっかりだぞ。キングが鼻を鳴らして呟いた。
 ライオン使いたちはピリピリとした空気の中で、自分のライオンから一時も離れない。サーカスの世界では、人を蹴落とすことは当たり前。一瞬でもライオンから目を離したら、次見た時には自分のライオンが、ただの肉片になっているかもしれないという恐怖と、いつも戦っているのだ。
 それに比べて、キング・ライオンは余裕綽々だ。きっと彼なら襲われたとしても、自分で身を守れるに違いない。というよりむしろ、彼に攻撃を仕掛けて成功する確率なんてあるのだろうか。
 そろそろ出番だぞ。
 ごついブラシで、素直に鬣を梳かされていたキングが呟いた。

「素晴らしい玉乗りでしたね!」
 上手にかかったカーテンの裏に待機していると、司会者のマイクを通した声が直に聞こえる。ピエロは緊張で胃がひっくり返りそうな気がした。でも、キングに怖いのか?と訊かれて、ハイと答えられるほど弱くはなかった。
「そっちこそ」
 ナメた口ききやがって。どこでそんなこと覚えたんだか。そう言って大きな口から零れたのは、ため息か、それとも笑みか。ピエロが梳かしてやった毛は、彼らが出会った時よりずっと艶めいて、一メートル二九八円の安っぽいサテン生地で作られた、ピエロのぴかぴかした衣装よりも光沢を放っていた。
 遠くの方で陽気な声がこだまする。次は皆さんお待ちかね、ライオンの登場です…。
「負けない」
 自分に言い聞かせるように呟いた言葉は、偶然にもライオンの言葉と重なった。照れ隠しにライオンは、湿った鼻をスンと鳴らした。
 赤いビロードのカーテンが、大きく開いた。会場はまるで人がそこにいないかのように、無音に包まれていた。もしくは息を飲む音だけが響いた。それほど、ライオンは素晴らしく美しかった。色とりどりのライトと、沢山の大人と子供の期待を込めた瞳の輝きが眩しい。そんな中をライオンは物怖じせず、まるでそこが勝手知った場所であるかのように堂々と歩いて行った。
「今日はライオンがピエロに、火の輪くぐりをさせます」
 どっと会場が沸く。司会者は慌てて台本を読み返す。客は彼がジョークを言ったと思っているに違いない。でも、それは違う。違うんだ。
 ピエロはゆっくりと火の輪から離れた。火の粉のパチパチと弾ける音が遠くなる。胸いっぱいに息を吸って、そっとライオンを見つめると、ビー玉みたいな瞳で見つめ返してくれた。
 ここで失敗したら、もう後はない。ピエロをクビになってしまう。
 でももし成功したら。ピエロは考える。何が手に入るのだろうか。名声? お金?
 それは他のサーカスの人達とおんなじ考えで、そんな考え方を一瞬でもしてしまった自分が嫌になった。
「僕は、人とは違う。違うんだ!」
 本能のままに駆け出した。両手を体につけ、跳んだ。そのまま輪を通り抜ける。炎が心を焼く。熱い、熱くてたまらない。体はどうか。体は…。
「成功しました! ピエロの輪くぐりです! 見てくださいこの栄光を! やりました、やりました!」
 心だけが、まだ燃えていた。メラメラと体の中から燃やし尽くしてしまいそうなくらいに勢いのある炎が、ピエロの中には、いる。

 売れないピエロがライオンと出会ったのは、ある夜のことだ。面白くない者はサーカスに出ることが出来ない。ピエロはまさにそのうちの一人だった。他の面白くない奴は、一人、また一人と消えていき、ピエロだけが残った。ピエロは馬鹿正直に、一人ぼっちになっても尚、ピエロを続けた。
 森の奥深く。木々の間に黄金色がキラリと光った。よく見ると、それはブラシみたいに強いのに、妙に艶のある毛だった。四方八方に跳ねた毛の一本一本が光っていた。二つの碧いビー玉が爛々と輝き、立派な牙は使い込まれたように黄を帯びている。象のように大きな体は、堂々と立ち尽くすこと以外に存在する方法を知らない。
 大きなライオンは唸るように喋った。俺の森に許可なく入ったな。取って食ってやる。
 むしろそれでいいと思った。足掻いて生きているよりは、ライオンに食われてしまった方が楽かもしれない。
「痛くしないでくださいね。なるべく苦しまないように逝かせてください」
 ライオンは喉に何かが詰まったみたいな変な顔をした。そして一言。変わってる。
「…よく言われます。でもこうやって頑張るほか、やり方を知らないから。今度のサーカスに出られなかったら、クビになるんです。それまでに面白くなりたいけど、やっぱりそう簡単にはね、いきませんよね」
 自嘲的に嗤う。慣れていることだ。

 なんで笑うんだ。

 ふっと口の端に浮かべていた笑みが消えた。そうして初めて、意識して嗤っていたことに気が付いた。
 笑える状況じゃないんだろう。それなのにどうして笑うんだ。人間っていうのは分からない。そんな中でも、お前は一番分からない。
 ライオンの言葉は深く優しく響くくせに、心にぶっすりと刺さった。
「…もう、笑うのやめます」
 切なげに微笑んでそう宣言すると、ライオンは怪訝そうに鼻を鳴らした。
 俺がどうして笑うかきいたから、笑うのをやめるっていうのか?
「まあ、それだけじゃないですけど」
 するとライオンはいきなり髭を震わせた。スピスピとひくつかせる。笑っている。
 面白い。お前は面白い!
「面白くなんかないですよ。さあ、早く食べちゃってください」
 気が変わった。ライオンは歯をむき出してそう言い放った。
 お前面白いから、俺がタッグを組んでやる。
「タッグって…。君に何が出来るの? 火の輪くぐりとか、出来るの?」
 出来ないぞ?
「じゃあダメじゃん。芸のないライオンなんて、サーカスには出られないよ」
 何を言ってる。お前が芸をするんだ。
「僕が?」
 お前が火の輪くぐりをすればいい。俺はお前の主人だからな。見ててやる。
「なんで君が主人なんだよ!」
 俺は誰かの物にはならない主義なんだ。
 でもそれは、とても面白い案だった。それに、この賢いライオンに、ピエロの主人をすることくらい、何でもなかったのだ。
 俺はキング・ライオン。キングと呼べ。


ピエロが火の輪をくぐるというのは、前代未聞なのですが、どこからその発想が沸いたんですか?
人間がくぐっても安全なんですか?
 成功をおさめると、記者が質問攻めにするというのは本当らしい。苦笑いしながら、それでもどこか嬉しそうに答えるピエロを横目で見ながら、キングは歩き出した。
 
取材に答えていたら、キングを見失ってしまった。楽屋に帰る道すがら、キョロキョロと姿を探すと、廊下に立っているのを見つけた。振り向いた彼の鼻から首にかけては、ぬるりと鈍く光る赤で染まっていた。
「どうしたの! 何があったの!」
 キングは前足でピエロの腕を払った。
 俺の怪我じゃない。そう吐き捨てた。
「ああよかった、怪我はないんだね?」
 でもどうして。怪我もしていないのに、こんなに血だらけなのだろうか。
 そこに、ライオン使い達が駈け込んで来た。ピエロは思わずキングを隠した。
「なあ! 俺たちのライオン、見てないか?」
「見ていないけど…それがどうかしたの?」
「いなくなっちまったんだよ…。どうすればいいんだ、俺にはあいつがいなきゃ、何もできないっていうのに…」
 哀しそうにそう呟いて、ライオン使いは走り去った。

そうして今、ピエロとライオンは、出会った森へ来ていた。
「今日、すごかったんだよ。沢山の人に笑ってもらえたし」
 ピエロはにっこり笑った。
 なあ。ピエロ。ライオンは囁いた。お前を食べようとして、すまなかった。
「そんなこと気にしないよ。君は何も悪くない」
 違う、違うんだ。俺は罪を犯したんだ。違うんだ…。

「違くない!」

 少年みたいに高いピエロの声に、ライオンの髭がぴくりと震えた。碧い瞳は辛そうに細くなり、一瞬炎が宿った。
 じゃあな、と背を向けると、尻尾をぱたぱたと振ってライオンは歩き出した。ライオンの尻尾が、これほど細くて頼りないものだったことを、ピエロは初めて知った。無性に悲しくなった。
 するとライオンが立ち止った。

 俺は、お前だけのライオンだ。

 あの日と同じ木々の間に溶けて消えていくライオンに向かって、ピエロは小さく、さよならと呟いた。