さとりなあ

カメレオンみたいだなって、よく思う。

ネオンとたぬき

デートの帰り道に手を繋いでくれたことは一度もない。そもそもこれがデートと言えるのかは謎だけど。もちろん今日だって。彼を感じさせてくれるのは、金曜日の夜の街に残る熱に溶かされて時折薫る、エキゾチックなコロンの香りだけ。汗混じりのその匂いが香らなかったら、隣にいるのかいないのか分からないような彼を、そっと見上げると、目が合った。側にいるのに、その温もりを感じられないのが怖くて、思わず目を逸らした。
「どしたん?」
 彼の低くて甘い声は好きだけど。
「…今度の日曜日、会えないかしら」
「…ごめん、無理やわ」
 ぷっつりと愛の切れた声は、シガレットの紫煙みたいに煙たげで、こんなことを言うんじゃなかったと、すぐに後悔してしまうけど。
 いつも、私はこの手に乗ってしまうから。今日こそは。
「…そうよね」
 結局言いたいことは今日も口にできなくて、目頭からじんわりと視界ににじみが広がる。慌てて瞬きの回数を減らして、渇きを待った。どうして泣く必要があるっていうの。私に泣く権利なんてない。泣いてしまったら、安い女だと思われるかもしれない。彼に見合う女になるのがどれほど困難なことかは分かっているし、きっとそれが私には無理なことも。
本当はなりふり構わずに恋に落ちたい。私の前に現れた彼は魅力的で、センスのよい高そうな服をサラッと着こなしてしまうような紳士で。
はじめての恋みたいに苦しいのはどうしてだろうか。駆け引きなしに、好きだと伝えられたらどんなに楽か。
でも、一度聞いてしまえばもう戻れないと、かろうじて残った理性が告げている。

 


私たちの関係は、なんだか曖昧だ。
三ヶ月程前、仕事でのミスが続いてムシャクシャしていた私は、金曜日の夜のネオンに照らされた街を一人歩いていた。ピンクや黄色のチカチカした安っぽい電球に、包み込んでくれるような温かさはないけれど、オシャレな賃貸のマンションのLEDの冷たい光を一人で見たくなかった。
なんかもう死んだほうがマシなのかもしれない。ああ、でも家族が悲しむだろうし、親不孝者にはなりたくないから自分で死ぬのはやめよう。通り魔にでも刺されて死ぬのが一番楽かな。 ああ、でもいきなり死んだら会社に迷惑かな。私一人いなくなっても、会社は変わらず回るか。
そこまで考えるとどうしようもなく哀しくなった。自分の存在意義を感じさせてくれる何かが欲しくなった。なんでもいい、依存してくるような男でもいいかもしれない。とにかく私を必要としてくれる誰かを。誰か。誰か私を、拾って。
いつの間にか泣いていたようで、客引きのお兄さんが声をかけようと近づいて来て、ぎょっとしたように避けられるのが何度か続いた。そりゃそうよ、仕事終わりで化粧も崩れた女がこんな街を歩いてること自体、気が触れたんじゃないかと思われてもおかしくないもの。

 


フラフラと行くあてもなく歩いていると、道端に一人の男の人が座り込んでいた。気分が悪いのだろうか、と思ったけれど、彼は真っ直ぐに私を見ていたから、すぐにそんなことはないと気付いた。
彼の瞳につかまった視線は、離そうと思ってもなかなか離せなくて、怖いくらいに真っ直ぐな視線と、やさしい茶色い瞳がミスマッチで。もしかしたらもうこの時から彼に堕ちていたのかもしれない。
「お嬢さん、見えてんねや」
「見えてるって…なにが?」
「ううん、なんでもない。…なぁ、そんな泣きそうな顔せんといて。こっちも悲しくなるやん」
切れ長の目を細めて微笑むたぬきみたいな顔の彼の、左耳の耳たぶにある黒子がセクシーで、目が離せなくなった。
「もし俺でよかったら、話聞くで。だから、そんな顔せえへんの。笑顔笑顔」


それから私たちの奇妙な関係は始まった。
週に一度、金曜日の夜の八時から十時にだけ会える約束。
それを言い出したのは彼だった。なんて我儘な人なんだろう。毎週、しかも二時間も奪うなんて、と思ったけれど、今はそれだけじゃ全然足りない私がいる。
それでも私たちは必ず金曜日の夜にしか会えない。大体いつも話をするだけ。映画館とかプラネタリウムみたいなのはダメだし、車や電車で移動するのもダメ。必ず歩いていける距離しか、彼がイエスと言わなかった。食事に行くこともなかったから、私は彼の好きな食べ物を知らない。   
それに、私は彼の連絡先すらも知らなかった。
集合は現地のこともあったけど、解散はいつも決まって、私たちが出会った場所まで送ってくれる。その優しさとは裏腹に、手が繋がれたことは、一度もない。

 


彼には奥さんがいるのかもしれない。そう思ったことがある。あとは、なにか特別な事情があって、十時になったら消えちゃうとか。どこぞの夢の国のお姫様か。他には、例えば、幽霊とか。
なんにしろ私が結ばれる可能性は少ないわけで、だったらせめてこの関係は壊したくないというのが、いつもの私の言い訳だった。

 


彼にはいつも、闇がちらついている。それは街のネオンが消える頃に、一緒に消えてしまうような陰り。影が彼で、彼が影みたいな。だからこそそれは、彼の色気を引き出す。
最初はそれが不思議でならなくて、いつの間にか彼を目で追っていた。自然なことだった。  次第に私は彼以外の他のことを考えられなくなっていた。

 


でもそれも、もう終わり。
「ねえ」
「ん?なに?」
「もう…、会えない」
彼の茶色い瞳が見開かれた気がした。
「私ね、引っ越すの。東京へ」
「東京」
「仕事がね、上手くいって。東京に行った方が、なにかと便利なのよ。それに、やっと夢に近づいた。私ね、あなたに黙ってたけど、演技のお仕事してるの」
彼は押し黙ったまま、微動だにしなかった。九時五十七分。彼とのお別れまで、三分。
「明日のお昼頃、旅立つわ。だから、今までありがと」
にっこり笑って言う。紅いルージュは私を大人に飾ってるはず。大丈夫、涙は出てこない。  大丈夫、最後までいい女、演じられる。
…いい女ってなに? 彼にとって私は、都合のいい女じゃないの? じんわり熱くなって、慌てて彼に背を向けた。そのまま二、三歩踏み出しながら、小さく呟く。
「…終わった」
「なにがやねん…」
 今まで聞いたことのない切なさ混じりの声に、零れそうになるのを堪える。
「わたしの初恋、が…」
 泣ける演技も大切だけど、泣かずに魅せる演技も必要だと、その道の先輩が教えてくれた。でもその意味は、その時の私には分からなかった。泣くということは私にとって簡単なことで、泣きたいと思えば泣けたから。涙を堪えられない時があることを今知った。それを知らないほど、今までの私は心が空っぽだったんだろう。
「勝手に…勝手に終わらせんといてや…」
はっとして振り向くと、そこにはもう、彼はいなかった。時計を見ると、ぴったり十時。

 

 

 

そんな夢を、最近立て続けに見るようになった。

「勝手なのは…どっちよ」
 いつも朝の光が差し込む部屋に、そう問いかける。
大阪を離れて東京に来たけれど、日常はそんなには変わらない。仕事はやっぱりちょっとしたミスが時たまあって。無性にムシャクシャするときもある。それでも、大阪にあった、ピンクや黄色のネオンは東京にもあるから。
今日もたぬきみたいな彼を探しに行こう。