さとりなあ

カメレオンみたいだなって、よく思う。

つまらない夏の日々

「好き~」「うん、俺も」「すきっ」「俺も」「ねぇ好き!」「…俺も」「きらいっ」「おれも…って、え」「くぅくんはユイのこと、嫌いなんだ…ユイはこんなに好きなのに…」

俺の彼女は面倒くさい。正直、こういうタイプの女は苦手。まるで…ええと、あ、恋愛に恋してる、そうだそれだ。愛されてる自分、可愛い(はぁと)とか思っちゃってる、若い女にありがちなタイプ。それでも俺が彼女と付き合っているのは、俺にこういう女しか寄ってこないことが原因だ。

「くぅくん聞いてるの?」キンキン響く声。やめてほしい。ついでに、部屋に二人きりなのに腕にしがみつくのもやめてほしい。邪魔だし暑いし、俺だって男だ、我慢にも限界がある。甘ったるい香水もやめてほしい。どちらかというと、俺は香水より制汗剤派だ。ネコの毛が2,3本ついてる洋服を着るのもやめてほしい。俺はネコアレルギーだ。それに、カラコンをするのも…
そういえば、恋愛に恋してるなんて表現は新しい歌を作るのに使えそうだ。いや、そんな歌詞がもうすでにあった気もしなくはない。彼女はいつの間にか支度を終え、
「くぅくんなんて、もう知らないんだから!」
ヒステリックに叫んで、俺の家のドアを大げさなくらいに大きな音を立ててしめる。
2月12日(木)の昼過ぎ、彼女は大学へ出掛けていった。ただそれだけのことだった。変わらない日常だった。

女子高で非常勤講師をやる身の俺は、大した収入も得ることが出来ないばかりか、その収入の大半を有志で組んでいるバンドに注ぎ込んでいるために、彼女はできても妻ができない。結婚したい。いや、したくない。結婚したら親は喜ぶ。でも家庭に縛られるんだろう。面倒くさい。25歳の俺に集まるのは、香水ぷんぷんのヒステリック女だけだ。それ以上でも、以下でもない。悲劇的な人生や特別な運命に憧れなくもないけれど、例えば女子高の生徒との禁断の恋愛によって生み出されるかもしれない「解雇」の文字に恐れをなした俺は、結局は平坦な人生に身を任せる。

俺の彼女は面倒くさい。

でも俺にはそのくらいがちょうどいい。身の丈に合った人生を。


そろそろ塾のアルバイトの時間だ。今日も小学生達は喧しく、明日も女子高生達は制汗剤のツンとするにおいを教室中に蔓延させる。


つまらない夏が今年もやって来た。

あの夏の日々

その人に惚れたのは、確率の問題だった。しかも何億とか何兆って確率。まさか、何分の1の確率だなんて計算するわけないけど。
たまたま同じ学校で。たまたま同じ電車で。
たまたまスマホじゃなくて本読んでて。
ほんとにたまたま…その本が私の好きな本で。
そこからはもう、一気に落ちてった。出会った確率と同じく、恋が叶う確率もとても低いことを知っていながらも、私があの人に恋い焦がれたのは…叶う確率の方が、少しだけ高いことを望んでいただけかもしれない。



それまでは意識したこともなかったあの人が、私の中に存在感を残していったのは、なんの変哲もない日の放課後のこと。人気の薄れた校舎を足早に進む。目指すは音楽室。最終下校時刻までのタイムリミットはあと10分。遅れた提出物の紙切れ一枚を出すのには、十分すぎる時間だ。音楽室の扉を前にして、開けようと引き戸に手を伸ばしたまま固まる。
(…なんかめっちゃキレイな歌声聞こえるんだけど)
高いけど、キンキンしてるわけでもなく、とにかくキレイな歌声。扉を細く開け、中を窺う。そこにいたのが、あの人だった。彼の名は海野。私の通う女子校唯一の、若い男だ。



「ねぇ○○ってさ、海野のライブ行きたがってたよね?」
猫なで声が背後から聞こえ、悲鳴を上げかけるが、どうにかこらえて振り向く。クラスメイトの内の数少ない友達の一人、ミヤコ。猫みたいにしなやかなので、私は彼女をねこちゃんと呼んでいる。ちなみに、私が海野に恋していることを唯一知っている人間でもある。
「なんだ、ねこちゃんか。うん、めっちゃ行きたい。…でもなんで?」
「もしさ、チケット手に入ったら、行く? 私のお兄ちゃん、海野のバンドのキーボードの人と知り合いらしくて。○○のこと話したら、チケット貰ってこようか?って」
「マジか、行く行く、絶対行く」
 海野は学生時代の友人とバンドを組んでいて、ギター兼ボーカルを務めているらしい。わあ、意外。そんなギャップも萌えポイントだったりする。あまりバンドに興味ない私が、最近ちょっとガチャガチャした音楽を聴き始めたのに、海野が一切関係ないとは言い難い。

 とはいえ人見知りな私。周りは知らない人ばっかりで、少々緊張ぎみ。てっきりねこちゃんが一緒に来てくれるものだと思っていたのに、彼女は好きな男性アイドルのグッズ販売があるとかないとかで来なかったのだ。
突如、ベースを片手に高身長・イケメンな男の人が現れた。随分と大きな黄色い悲鳴が上がる。どうも、今日集まった人の中には、彼のファンが多数いるらしい。わらわらとステージに出てきた人たちのしんがりに、見慣れた姿があった。赤いギターを両手でしっかり握っている海野。少し大きめのパーカーが萌え袖のように手を包んでいる。寒そうに首をすくめる。いつ見ても可愛いな、こんちくしょう。
曲のイントロが流れ出す。聞いたことはないけれど、なんだか懐かしいような曲で、思わず頬が緩む。ギターを弾くあの人も素敵で、そんなキャラではないはずの私も、周りに合わせて手を叩く。―――海野の綺麗な歌声が、もうすぐ聞ける。
前奏が終わる瞬間を逃さないよう、しっかりと耳を澄ませる。海野が口をゆっくり開いた。息を吸う音が、マイクを通して聞こえた気がした。



「あ、ライブ、どうだった?」
ねこちゃんがラーメンを冷ましながら訊ねる。
「もうね、マジか!って感じ」
そう、あの日、あの人の声は、小さすぎて楽器の音に掻き消されたのだった。マイク調節どうにかしろよ。…それでも少し顔を赤らめて必死に歌う海野は、ギャップもありやっぱり格好良かった。うん、ギャップって大切。
「あっは、そんなことあるんだー」
「ねこちゃん、麺が汁吸ってますけど」
ねこちゃんは私の忠告を完全無視して麺をふーふー冷ます。チケットのお礼に、食堂で奢ってやってるのは誰だ。キングー!
 既に食べ終わったラーメンの器に浮かぶ油を、レンゲでつつく。暇だ。暇すぎる。こんな時は人見知りで会話が苦手な私なりに、海野の授業を聞くふりをしながら、海野を眺めてたい。いやん、変態。


史上最高の可愛さ(寝癖)をぴょこぴょこさせながら入ってくる海野。最近は随分と日差しが強くて、運動部の子たちの制汗剤の匂いが教室に充満する。香水みたいに甘くなくて、ちょっとツンとする爽やかな香り、主に柑橘系。普段は女子力の欠片もない女子校の奴らも、さすがに汗臭い女でいるのは嫌らしい。チョークとお弁当と汗と、グレープフルーツの科学的な匂いが混じった教室の空気を吸って、海野が目を丸くする。
「すごい匂いだね。別にこんなの使わなくていいのに」
「ばーか、汗臭いとかムリに決まってんじゃん」
クラスの仕切り屋、マドカちゃんが返す。海野はカラカラ笑う。
「でもボクの彼女、こういうの付けない…し…」
言ってから、しまった!と目を見開く海野。
「え、ナニ、マジ? 海野カノジョいんの? ウケる~!」
マドカちゃんの声が、キンキン響いた。私はうつむく。目頭がじわっと熱くなる。言っちゃ悪いけど、海野ってそんなに格好いいわけじゃない。だから、彼女がいると思ったことすら無かった。それって、私の自己保身の為の考えなだけだ。

海野の柔らかそうなサラサラの黒髪が風にゆれる。海野は茶髪も金髪も似合うと思うけど、やっぱり黒髪がいい。ジリジリと肌を刺す熱は、黒板に綴られていく海野の端整な字をただ眺めながら座っているだけの私を、窓を通してながら汗ばませる。海野の頬に一粒の汗の珠が光る。クーラーのないこの教室は、バカみたいに暑い。
そう、まるで禁断の恋に燃えていた、さっきまでの私みたいに。



「でも結局さー、忘れらんないワケよ。ちょっと聞いてんの、ねこちゃん」
「聞いてるよー、もう、○○ちゃん酔ってるでしょ?」
ねこちゃんが可愛く顔をしかめる。しっかし美人になったもんだ。人って10年弱でこんなに変わるんだー、へー。
「あーあ、私もねこちゃんみたに美人だったらなーっ」
「いきなり何よ、酔っ払い」
「あーっ、言ったな!」
「告白とかしなかったの?」
 カラン、と氷の小気味いい音が響いた。ちょっと強めのウィスキーの私と、お洒落なサワーのねこちゃん。なんだかんだで、月に一回くらいの頻度で会う私たちは気が合うらしい。
「告白…ねぇ」
 正直、告白しようと思ったことは何度もあった。でも私は、海野との関係性を壊したくなかったのだ。第一に、好きだったから彼を困らせたくなかった。そして、第二に…
「やっぱり、ああいう人だったから、好きだったんだろうな。今の私たちくらいだよね、あの時の海野。学生時代の年上って、1歳2歳でも、すごく大人に見えたじゃん。大人の恋に憧れてただけなのかも」
 それでも、またどこかで会えるんじゃないかとか、恋に発展しないかとか、考えちゃったりしてるんですよ。私のこと、覚えてますか? …海野先生。

人形劇団ぴよ『糸操り女と棒使い男』

劇場の電気はすっと落とされた。劇場といっても、すし詰めにして百人入るか入らないかの小さな規模だ。それでもこの劇団にとって、この小さな劇場の小さな舞台はぴったりの大きさだった。空いていた席にコートを脱いで腰掛けると、切ってもらったばかりのチケットをポケットにねじ込み、幸せのため息を吐いた。するとあっという間に闇の世界に一人ぼっちにされた気分になった。本当に真っ暗すぎて、おもちゃの詰まったびっくり箱に閉じ込められているような気がした。暗闇に目が慣れる前に、チョンチョンと拍子木の音が流れる。小さな舞台に小さなぼんぼりの灯がぽっと灯った。


「……あら、またいらしたの」
女は振り向くことなくそう呟いた。その声はどこか淋しげて、少年のようなあどけなさの残る青年は、障子をからりと引いて閉じると、女に駆け寄った。
「あなたにずっと会いたかった。覚えていてくれたのですね。早く、早く会おうと思ってはいたのですが……」
青年は袂を口元に当てて口篭る。女はまだ振り向かず、なにも喋らない。遠くで響くぽろんとした三味線の音とは違って、この二人きりの小さな部屋は沈黙で包まれていた。

 


「……あの、怒っていますか?」
遂に沈黙に耐えきれなくなって、青年が問うた。女の肩がぴくりと動いた。
「怒っている?」
 女の長くて黒い髪が、肩からはらりと零れた。青年は前のめりになって答える。
「ええ。僕が早く会いに来なかったから。約束をしたでしょう、すぐにまた会いに来ますと」
「そんなことおっしゃったかしら」
 女は純粋に理解できていないような口調で呟いた。
「あなたがいらっしゃらなくても、私に不都合なことはございませんわ。お金を落としてくださる殿方は、絶えずここへ訪れますもの。…ただ、怒るという感情が私には分からない」
 切なげに訴える声は、女が孤独であることを暗に伝えているような気がした。この世の何もかもを知っていそうな知性溢れる声色なのに、何も知らない純粋無垢な少女っぽさも見え隠れするアンバランスさ。そして女はゆっくりと振り向いた。床まで広がった髪は滑らかに揺れ、光沢を帯びて光った。
赤く色づいた唇は、ふっくらとして艶っぽい。首元から髪越しに透ける白い肌は、思わず跡を付けたくなるほどのきめ細かさ。ただ一つ不思議なのは、決して厭らしくは無いこと。むしろどこか高貴な雰囲気を漂わせているような顔立ちだった。しかし女の顔からは表情が読み取れず、それが逆に異常なくらいに美しかった。
「怒るという感情が分からないとは…またどうして」
 青年がおずおずと尋ねた。女は扇で目元までを覆うと、小さな声で囁く。
「怒るだけじゃありません。ただ一つ、私が知っている感情は、哀しさだけ」
伏し目がちな長い睫が、女の顔に影を作る。透けるような肌は、女の纏った真っ黒な地に金の刺繍の施された着物で、より一層白さが際立っていた。先ほどから廊下をぱたぱたと通りかかる、他の若い盛りの女達は、色とりどりの派手な着物を着ていたので、女の黒い着物は異質に見えた。

 

  青年はめげないらしかった。それは若さゆえの気遣いの無さなのか、それとも女に魅了されて、全てを愛している気になっていたのか。
「あなたのことをもっと知りたい。僕はお金を沢山持っているわけでもないし、他と比べて美男子なわけでもない……。だけどあなたの気持ちは分かる気がするんです。どうか胸の内に抱えるものを、少しでも分けてみては?」
「大した話ではございませんわ。それよりもっと、他の殿方がなさるような、ご自分のお話をお聞かせくださいまし」
「僕はあなたのことを知りたいのです。分かり合いたいのです。心の支えになりたい」
 青年は手をついて、女に躰を寄せた。女は青年から顔をそらし、しばし考え込む。
「……分かりました。私のことをお話ししましょう」

 


「家族は皆死にました」
 女は自嘲的に赤い唇を歪ませて嗤った。いや、実際はそう見えただけだ。女の表情は変化することが出来ないのだから。それでも女は、まるで表情を知っているかのように、そっと嗤ったのだった。無機質な、白くつるりとした、美しい顔で。
「よくあることですが、母は病弱で、私の妹を産んですぐに息を引き取りました。父は名も無い地方の役人で、ある時謀反の罪に問われて殺されました。兄二人と妹、そして私は逃げましたが、途中で下の兄が病気になり死にました」
 女は表情がないばかりか、紡ぎだす言葉にも何の感情も籠っておらず、空虚だった。淡々と語られる女の過去は悲惨なのに、彼女はそれをまるで見聞きしたことのように語るのだ。青年は女の言葉を一心に受けようと頷きを繰り返していたが、なんだかその様は滑稽に見えた。
「上の兄は、新しく見つけた住居の裏にある崖から落ちて、命を落としました。私は妹と生きるためにここで働き始めましたが、妹は私が外に出ている間に、家に入った泥棒に殺されました」


 青年が袂で目じりを押さえた。女は小首を傾げて青年を見つめていた。何故彼が泣いているのかが、本当に分からないらしかった。
「……これからは、僕があなたを支えます。決して手放したり、苦しませたり、悲しませたりしません。だから、…」
 お時間です、と愛想のよい声が障子越しに聞こえて、青年は口をつぐんだ。
「また……お待ちしております」
 女は切なげに顔を伏せた。青年は強く頷くと、女の扇を奪い取ると、自分のを握らせた。
「絶対に、また来ますから。僕の愛は分かって頂けていると思ってはいますが、会えない間、僕のこの扇を形見に淋しさを紛らわせてください。それと…あなたはこの間、お名前を教えてくださりませんでしたね。あなたの名前を呼んで、そしてあなたに触れたい」
「私の名前」
 女は拍子抜けしたように呟いた。
「そうですね。私の周りの人が順番に亡くなるものですから、人は皆、私のことをこう呼びますわ」
 女は青年の耳元へ、形のよい唇を寄せて囁いた。
「死神、と」
 青年はごくりと息を飲んだ。そして黙って障子を引き、廊下に消えていった。
「お帰りになる時、お気をつけて。死神に魅入られないように」
 女の呟きはきっと彼には聞こえていないだろう。気付くともう日も暮れて、外は鈴虫の音で溢れかえっているようだった。
 ぼんぼりの灯が、魂が消えてしまうかのように、すうっと闇に溶けた。


 いつもの子供向けのもいいけれど、たまにはこんな大人向けのも面白いな、と思った。青年の人形は棒で動かしているのに対し、女は糸で操っているタイプの人形だったのも新鮮だった。登場する人形がその二人だけなのにも関わらず、わざわざ形を変えた理由は定かではないが。その違いも二人の立場の違いを表しているようで、好印象だった。
「人形劇団ぴよの大人向け公演『糸操り女と棒使い男』は、これにて終了でーす。本日はありがとうございました。お気をつけてお帰りください」
 このまま死神に魅入られてこの世を去れたら……いやだめだ、明日もやらなければならない仕事が山積みだ。入ったばかりの新人が使えるようになるまでは死ねない、とため息を吐いて、まだ長く続きそうな冬の街に、コートを引っ掛けながら繰り出した。

ライオンとピエロ

 サーカスのテントの中は、人でいっぱいで、冬なのにじっとりと汗をかくほどに温まっていた。
「さーあ、続いては皆さんお待ちかねのライオンショーでございます!」
 司会者の盛り上げに、会場は更に沸いた。
「まずはライオンの玉乗り。この大きな玉に乗ってもらいましょう!」
 それを楽屋の小さなテレビで見ていたピエロは、大きくため息を吐いた。サーカス当日は、楽屋が賑やかになる。ライオン使いとライオンは、揃って同じ部屋に押し込められるからだ。
「みんな、賢そうなライオンだね」
 何言ってる。メスライオンに鬣を付けたみたいな奴らばっかりだぞ。キングが鼻を鳴らして呟いた。
 ライオン使いたちはピリピリとした空気の中で、自分のライオンから一時も離れない。サーカスの世界では、人を蹴落とすことは当たり前。一瞬でもライオンから目を離したら、次見た時には自分のライオンが、ただの肉片になっているかもしれないという恐怖と、いつも戦っているのだ。
 それに比べて、キング・ライオンは余裕綽々だ。きっと彼なら襲われたとしても、自分で身を守れるに違いない。というよりむしろ、彼に攻撃を仕掛けて成功する確率なんてあるのだろうか。
 そろそろ出番だぞ。
 ごついブラシで、素直に鬣を梳かされていたキングが呟いた。

「素晴らしい玉乗りでしたね!」
 上手にかかったカーテンの裏に待機していると、司会者のマイクを通した声が直に聞こえる。ピエロは緊張で胃がひっくり返りそうな気がした。でも、キングに怖いのか?と訊かれて、ハイと答えられるほど弱くはなかった。
「そっちこそ」
 ナメた口ききやがって。どこでそんなこと覚えたんだか。そう言って大きな口から零れたのは、ため息か、それとも笑みか。ピエロが梳かしてやった毛は、彼らが出会った時よりずっと艶めいて、一メートル二九八円の安っぽいサテン生地で作られた、ピエロのぴかぴかした衣装よりも光沢を放っていた。
 遠くの方で陽気な声がこだまする。次は皆さんお待ちかね、ライオンの登場です…。
「負けない」
 自分に言い聞かせるように呟いた言葉は、偶然にもライオンの言葉と重なった。照れ隠しにライオンは、湿った鼻をスンと鳴らした。
 赤いビロードのカーテンが、大きく開いた。会場はまるで人がそこにいないかのように、無音に包まれていた。もしくは息を飲む音だけが響いた。それほど、ライオンは素晴らしく美しかった。色とりどりのライトと、沢山の大人と子供の期待を込めた瞳の輝きが眩しい。そんな中をライオンは物怖じせず、まるでそこが勝手知った場所であるかのように堂々と歩いて行った。
「今日はライオンがピエロに、火の輪くぐりをさせます」
 どっと会場が沸く。司会者は慌てて台本を読み返す。客は彼がジョークを言ったと思っているに違いない。でも、それは違う。違うんだ。
 ピエロはゆっくりと火の輪から離れた。火の粉のパチパチと弾ける音が遠くなる。胸いっぱいに息を吸って、そっとライオンを見つめると、ビー玉みたいな瞳で見つめ返してくれた。
 ここで失敗したら、もう後はない。ピエロをクビになってしまう。
 でももし成功したら。ピエロは考える。何が手に入るのだろうか。名声? お金?
 それは他のサーカスの人達とおんなじ考えで、そんな考え方を一瞬でもしてしまった自分が嫌になった。
「僕は、人とは違う。違うんだ!」
 本能のままに駆け出した。両手を体につけ、跳んだ。そのまま輪を通り抜ける。炎が心を焼く。熱い、熱くてたまらない。体はどうか。体は…。
「成功しました! ピエロの輪くぐりです! 見てくださいこの栄光を! やりました、やりました!」
 心だけが、まだ燃えていた。メラメラと体の中から燃やし尽くしてしまいそうなくらいに勢いのある炎が、ピエロの中には、いる。

 売れないピエロがライオンと出会ったのは、ある夜のことだ。面白くない者はサーカスに出ることが出来ない。ピエロはまさにそのうちの一人だった。他の面白くない奴は、一人、また一人と消えていき、ピエロだけが残った。ピエロは馬鹿正直に、一人ぼっちになっても尚、ピエロを続けた。
 森の奥深く。木々の間に黄金色がキラリと光った。よく見ると、それはブラシみたいに強いのに、妙に艶のある毛だった。四方八方に跳ねた毛の一本一本が光っていた。二つの碧いビー玉が爛々と輝き、立派な牙は使い込まれたように黄を帯びている。象のように大きな体は、堂々と立ち尽くすこと以外に存在する方法を知らない。
 大きなライオンは唸るように喋った。俺の森に許可なく入ったな。取って食ってやる。
 むしろそれでいいと思った。足掻いて生きているよりは、ライオンに食われてしまった方が楽かもしれない。
「痛くしないでくださいね。なるべく苦しまないように逝かせてください」
 ライオンは喉に何かが詰まったみたいな変な顔をした。そして一言。変わってる。
「…よく言われます。でもこうやって頑張るほか、やり方を知らないから。今度のサーカスに出られなかったら、クビになるんです。それまでに面白くなりたいけど、やっぱりそう簡単にはね、いきませんよね」
 自嘲的に嗤う。慣れていることだ。

 なんで笑うんだ。

 ふっと口の端に浮かべていた笑みが消えた。そうして初めて、意識して嗤っていたことに気が付いた。
 笑える状況じゃないんだろう。それなのにどうして笑うんだ。人間っていうのは分からない。そんな中でも、お前は一番分からない。
 ライオンの言葉は深く優しく響くくせに、心にぶっすりと刺さった。
「…もう、笑うのやめます」
 切なげに微笑んでそう宣言すると、ライオンは怪訝そうに鼻を鳴らした。
 俺がどうして笑うかきいたから、笑うのをやめるっていうのか?
「まあ、それだけじゃないですけど」
 するとライオンはいきなり髭を震わせた。スピスピとひくつかせる。笑っている。
 面白い。お前は面白い!
「面白くなんかないですよ。さあ、早く食べちゃってください」
 気が変わった。ライオンは歯をむき出してそう言い放った。
 お前面白いから、俺がタッグを組んでやる。
「タッグって…。君に何が出来るの? 火の輪くぐりとか、出来るの?」
 出来ないぞ?
「じゃあダメじゃん。芸のないライオンなんて、サーカスには出られないよ」
 何を言ってる。お前が芸をするんだ。
「僕が?」
 お前が火の輪くぐりをすればいい。俺はお前の主人だからな。見ててやる。
「なんで君が主人なんだよ!」
 俺は誰かの物にはならない主義なんだ。
 でもそれは、とても面白い案だった。それに、この賢いライオンに、ピエロの主人をすることくらい、何でもなかったのだ。
 俺はキング・ライオン。キングと呼べ。


ピエロが火の輪をくぐるというのは、前代未聞なのですが、どこからその発想が沸いたんですか?
人間がくぐっても安全なんですか?
 成功をおさめると、記者が質問攻めにするというのは本当らしい。苦笑いしながら、それでもどこか嬉しそうに答えるピエロを横目で見ながら、キングは歩き出した。
 
取材に答えていたら、キングを見失ってしまった。楽屋に帰る道すがら、キョロキョロと姿を探すと、廊下に立っているのを見つけた。振り向いた彼の鼻から首にかけては、ぬるりと鈍く光る赤で染まっていた。
「どうしたの! 何があったの!」
 キングは前足でピエロの腕を払った。
 俺の怪我じゃない。そう吐き捨てた。
「ああよかった、怪我はないんだね?」
 でもどうして。怪我もしていないのに、こんなに血だらけなのだろうか。
 そこに、ライオン使い達が駈け込んで来た。ピエロは思わずキングを隠した。
「なあ! 俺たちのライオン、見てないか?」
「見ていないけど…それがどうかしたの?」
「いなくなっちまったんだよ…。どうすればいいんだ、俺にはあいつがいなきゃ、何もできないっていうのに…」
 哀しそうにそう呟いて、ライオン使いは走り去った。

そうして今、ピエロとライオンは、出会った森へ来ていた。
「今日、すごかったんだよ。沢山の人に笑ってもらえたし」
 ピエロはにっこり笑った。
 なあ。ピエロ。ライオンは囁いた。お前を食べようとして、すまなかった。
「そんなこと気にしないよ。君は何も悪くない」
 違う、違うんだ。俺は罪を犯したんだ。違うんだ…。

「違くない!」

 少年みたいに高いピエロの声に、ライオンの髭がぴくりと震えた。碧い瞳は辛そうに細くなり、一瞬炎が宿った。
 じゃあな、と背を向けると、尻尾をぱたぱたと振ってライオンは歩き出した。ライオンの尻尾が、これほど細くて頼りないものだったことを、ピエロは初めて知った。無性に悲しくなった。
 するとライオンが立ち止った。

 俺は、お前だけのライオンだ。

 あの日と同じ木々の間に溶けて消えていくライオンに向かって、ピエロは小さく、さよならと呟いた。

ネオンとたぬき

デートの帰り道に手を繋いでくれたことは一度もない。そもそもこれがデートと言えるのかは謎だけど。もちろん今日だって。彼を感じさせてくれるのは、金曜日の夜の街に残る熱に溶かされて時折薫る、エキゾチックなコロンの香りだけ。汗混じりのその匂いが香らなかったら、隣にいるのかいないのか分からないような彼を、そっと見上げると、目が合った。側にいるのに、その温もりを感じられないのが怖くて、思わず目を逸らした。
「どしたん?」
 彼の低くて甘い声は好きだけど。
「…今度の日曜日、会えないかしら」
「…ごめん、無理やわ」
 ぷっつりと愛の切れた声は、シガレットの紫煙みたいに煙たげで、こんなことを言うんじゃなかったと、すぐに後悔してしまうけど。
 いつも、私はこの手に乗ってしまうから。今日こそは。
「…そうよね」
 結局言いたいことは今日も口にできなくて、目頭からじんわりと視界ににじみが広がる。慌てて瞬きの回数を減らして、渇きを待った。どうして泣く必要があるっていうの。私に泣く権利なんてない。泣いてしまったら、安い女だと思われるかもしれない。彼に見合う女になるのがどれほど困難なことかは分かっているし、きっとそれが私には無理なことも。
本当はなりふり構わずに恋に落ちたい。私の前に現れた彼は魅力的で、センスのよい高そうな服をサラッと着こなしてしまうような紳士で。
はじめての恋みたいに苦しいのはどうしてだろうか。駆け引きなしに、好きだと伝えられたらどんなに楽か。
でも、一度聞いてしまえばもう戻れないと、かろうじて残った理性が告げている。

 


私たちの関係は、なんだか曖昧だ。
三ヶ月程前、仕事でのミスが続いてムシャクシャしていた私は、金曜日の夜のネオンに照らされた街を一人歩いていた。ピンクや黄色のチカチカした安っぽい電球に、包み込んでくれるような温かさはないけれど、オシャレな賃貸のマンションのLEDの冷たい光を一人で見たくなかった。
なんかもう死んだほうがマシなのかもしれない。ああ、でも家族が悲しむだろうし、親不孝者にはなりたくないから自分で死ぬのはやめよう。通り魔にでも刺されて死ぬのが一番楽かな。 ああ、でもいきなり死んだら会社に迷惑かな。私一人いなくなっても、会社は変わらず回るか。
そこまで考えるとどうしようもなく哀しくなった。自分の存在意義を感じさせてくれる何かが欲しくなった。なんでもいい、依存してくるような男でもいいかもしれない。とにかく私を必要としてくれる誰かを。誰か。誰か私を、拾って。
いつの間にか泣いていたようで、客引きのお兄さんが声をかけようと近づいて来て、ぎょっとしたように避けられるのが何度か続いた。そりゃそうよ、仕事終わりで化粧も崩れた女がこんな街を歩いてること自体、気が触れたんじゃないかと思われてもおかしくないもの。

 


フラフラと行くあてもなく歩いていると、道端に一人の男の人が座り込んでいた。気分が悪いのだろうか、と思ったけれど、彼は真っ直ぐに私を見ていたから、すぐにそんなことはないと気付いた。
彼の瞳につかまった視線は、離そうと思ってもなかなか離せなくて、怖いくらいに真っ直ぐな視線と、やさしい茶色い瞳がミスマッチで。もしかしたらもうこの時から彼に堕ちていたのかもしれない。
「お嬢さん、見えてんねや」
「見えてるって…なにが?」
「ううん、なんでもない。…なぁ、そんな泣きそうな顔せんといて。こっちも悲しくなるやん」
切れ長の目を細めて微笑むたぬきみたいな顔の彼の、左耳の耳たぶにある黒子がセクシーで、目が離せなくなった。
「もし俺でよかったら、話聞くで。だから、そんな顔せえへんの。笑顔笑顔」


それから私たちの奇妙な関係は始まった。
週に一度、金曜日の夜の八時から十時にだけ会える約束。
それを言い出したのは彼だった。なんて我儘な人なんだろう。毎週、しかも二時間も奪うなんて、と思ったけれど、今はそれだけじゃ全然足りない私がいる。
それでも私たちは必ず金曜日の夜にしか会えない。大体いつも話をするだけ。映画館とかプラネタリウムみたいなのはダメだし、車や電車で移動するのもダメ。必ず歩いていける距離しか、彼がイエスと言わなかった。食事に行くこともなかったから、私は彼の好きな食べ物を知らない。   
それに、私は彼の連絡先すらも知らなかった。
集合は現地のこともあったけど、解散はいつも決まって、私たちが出会った場所まで送ってくれる。その優しさとは裏腹に、手が繋がれたことは、一度もない。

 


彼には奥さんがいるのかもしれない。そう思ったことがある。あとは、なにか特別な事情があって、十時になったら消えちゃうとか。どこぞの夢の国のお姫様か。他には、例えば、幽霊とか。
なんにしろ私が結ばれる可能性は少ないわけで、だったらせめてこの関係は壊したくないというのが、いつもの私の言い訳だった。

 


彼にはいつも、闇がちらついている。それは街のネオンが消える頃に、一緒に消えてしまうような陰り。影が彼で、彼が影みたいな。だからこそそれは、彼の色気を引き出す。
最初はそれが不思議でならなくて、いつの間にか彼を目で追っていた。自然なことだった。  次第に私は彼以外の他のことを考えられなくなっていた。

 


でもそれも、もう終わり。
「ねえ」
「ん?なに?」
「もう…、会えない」
彼の茶色い瞳が見開かれた気がした。
「私ね、引っ越すの。東京へ」
「東京」
「仕事がね、上手くいって。東京に行った方が、なにかと便利なのよ。それに、やっと夢に近づいた。私ね、あなたに黙ってたけど、演技のお仕事してるの」
彼は押し黙ったまま、微動だにしなかった。九時五十七分。彼とのお別れまで、三分。
「明日のお昼頃、旅立つわ。だから、今までありがと」
にっこり笑って言う。紅いルージュは私を大人に飾ってるはず。大丈夫、涙は出てこない。  大丈夫、最後までいい女、演じられる。
…いい女ってなに? 彼にとって私は、都合のいい女じゃないの? じんわり熱くなって、慌てて彼に背を向けた。そのまま二、三歩踏み出しながら、小さく呟く。
「…終わった」
「なにがやねん…」
 今まで聞いたことのない切なさ混じりの声に、零れそうになるのを堪える。
「わたしの初恋、が…」
 泣ける演技も大切だけど、泣かずに魅せる演技も必要だと、その道の先輩が教えてくれた。でもその意味は、その時の私には分からなかった。泣くということは私にとって簡単なことで、泣きたいと思えば泣けたから。涙を堪えられない時があることを今知った。それを知らないほど、今までの私は心が空っぽだったんだろう。
「勝手に…勝手に終わらせんといてや…」
はっとして振り向くと、そこにはもう、彼はいなかった。時計を見ると、ぴったり十時。

 

 

 

そんな夢を、最近立て続けに見るようになった。

「勝手なのは…どっちよ」
 いつも朝の光が差し込む部屋に、そう問いかける。
大阪を離れて東京に来たけれど、日常はそんなには変わらない。仕事はやっぱりちょっとしたミスが時たまあって。無性にムシャクシャするときもある。それでも、大阪にあった、ピンクや黄色のネオンは東京にもあるから。
今日もたぬきみたいな彼を探しに行こう。

さとりなあ文庫

…ってなに?って思うよね。

 

いわゆる

 

毒吐きコメディ。

 

ふふふ、と笑った後に、知らず知らずの内にその毒に侵されるような、そんな物語が書きたくて、日々模索中。

 

 

最近はおとな〜な感じの物語ばかりですね。大人な恋愛に憧れますが、果たして大人の恋愛とはなんでしょう。

 

 

そーんな感じで(どんなだ)、奇想天外な物語を書きます。でもそんなこと言いつつ案外真面目な物語も書きます。ポリシー?気にしない。その時に書きたいものを書く。

 

 

カメレオンみたいだなあ。カメレオン文庫に改名しようかなあ。